水瀬佳乃 襖の向こうで、春がほどける

RETRO ONSEN CURVES / Office Curve Studio

水瀬佳乃
襖の向こうで、春がほどける

見えそうで見えない。言いそうで言わない。
夜桜の古民家宿に残る、大人の余韻。

春の京都。夜桜。古い古民家宿。
何かがあったわけではない。けれど、何もなかったと言い切るには、少しだけ春が濃すぎた。

水瀬佳乃 夜桜の古民家宿へ向かう

夜桜の石畳を抜けて、古民家宿へ。ひとりで来たはずなのに、どこかに誰かの気配がある。

春の京都は、夜になると音が少なくなる。

石畳の上に落ちた桜の花びらを踏まないように、水瀬佳乃は少しだけ歩幅を狭めた。
小さな旅行鞄の持ち手を握り直す。駅から離れるほど、観光客の声は薄くなり、かわりに木戸の軋む音や、どこかの家の風鈴のような音が近くなった。

古民家宿の灯りは、思っていたよりも控えめだった。
格子戸の横に吊るされた提灯が、風に揺れるたび、彼女の足元に淡い影を落とす。暖簾をくぐる前に、佳乃は一度だけ後ろを振り返った。

誰かがついてきているわけではない。
それでも、今夜だけは、ひとりで来たのだと言い切るのに少し時間がかかった。

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見せすぎないからこそ残る、大人の物語。

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部屋の中に、夜が残っていた

水瀬佳乃 古民家宿の奥座敷

座卓には、湯呑み、桜餅、読みかけの文庫本。奥の襖は、まだ開けない。

帳場で名前を書く。
筆ペンの先が、宿帳の紙に小さく沈む。差し出された鍵には、古びた木札がついていた。その番号を見た瞬間、佳乃はなぜか少しだけ笑ってしまった。

「奥のお部屋になります」

案内された廊下は、歩くたびにほんのわずか鳴った。窓の外には夜桜があった。満開というより、もう少し先へ進みかけた桜。散り始めた花びらが、黒い庭石の上に白く溜まっている。

部屋の襖を開けると、畳の匂いがした。

座卓の上には、急須と湯呑み。小皿には桜餅が一つ。窓際には低い椅子。奥の襖は閉じられていた。

佳乃は鞄を畳の上に置き、しばらくその襖を見ていた。
開ければ、たぶん布団が敷かれているだけだ。それだけのことなのに、閉じられた襖は夜の続きを隠しているように見えた。

直接見えないものは、見えているものより近い。
佳乃はふと、そんなことを思った。

浴衣になるまで

水瀬佳乃 障子越しの影と浴衣

浴衣、帯、足袋、櫛。人物より先に、小物が夜の気配を帯びていく。

文庫本を取り出して、座卓の端に置く。けれどまだ開かない。
湯呑みに注がれたお茶の湯気が、ゆっくりとほどけていくのを見ているだけで、時間は足りた。

畳の上には、宿の浴衣がきちんと畳まれていた。
淡い灰桜色の帯。白い足袋。小さな籠には手ぬぐいと櫛。

佳乃は浴衣に手を伸ばし、布の端を指でなぞった。
旅先の浴衣は、どうしていつも少しだけ照れくさいのだろう。誰に見せるわけでもないのに、鏡の前に立つ前から、もう何かを見られているような気がする。

障子の向こうに、彼女の影が映る。
帯を手に取る影。髪を片側に寄せる影。少し迷って、もう一度結び直す影。

浴衣の襟元を整えて鏡を見る。
そこに映った自分は、いつもの自分より少し静かだった。若い頃のように何かを急ぐ顔ではない。けれど、何も期待していない顔でもなかった。

帯を締める指先が一度だけ止まる。
それから、少しゆるく結び直した。

湯上がりの髪が、まだ乾かない

水瀬佳乃 湯上がりの濡れ髪

湯上がりの濡れ髪。何も語らない表情ほど、夜の続きを感じさせる。

貸切湯へ向かう廊下には、夜の湿気があった。
木の床は冷たく、足袋越しにもその冷たさがわかる。行灯の灯りが佳乃の影を長く伸ばし、曲がり角の先でふっと消した。

湯殿の戸を開けると、白い湯気が先に出迎えた。
木桶。手ぬぐい。湯気で曇った鏡。そこに映る自分の輪郭は、はっきりとはしなかった。

はっきりしない方が、ほっとする夜もある。

部屋へ戻るころには、髪の先がまだ乾ききっていなかった。
首筋に触れるたび、少しだけ体が反応してしまう。佳乃はそれをごまかすように、タオルで髪を押さえた。

座卓の上の文庫本を開く。
一行目を読む。もう一度、同じ一行を読む。それでも意味は入ってこなかった。

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半分だけ開いた襖

湯呑みに水を注ぎ、ひと口飲む。
冷たさが喉を通る。行灯の灯りは弱く、部屋の隅を暗く残している。

奥の襖が、少しだけ開いていた。

いつ開けたのか、覚えていない。たぶん自分で開けたのだろう。
けれど、そうではない気もした。

襖の向こうには、白い布団が敷かれていた。
ただそれだけ。ただそれだけなのに、夜が急に近くなる。

佳乃は文庫本を閉じた。
しおりを挟むのを忘れたことに気づいたが、もう一度開く気にはならなかった。畳に置いた指先の近くに、桜餅の包み紙が小さく折れている。座布団は、少しだけ斜めになっていた。

風が吹いたのか、障子に桜の影が揺れた。
影は一瞬、誰かが襖の向こうで動いたみたいに見えた。

佳乃は笑いそうになって、やめた。
その代わりに、帯の結び目へ手をやる。きつく締め直すでもなく、ほどくでもなく、ただそこに触れただけだった。

夜は、それ以上何も言わなかった。

朝に残るもの

水瀬佳乃 朝の古民家宿の余韻

朝の白い光。空の湯呑み、閉じた文庫本、半分だけ開いた襖。夜の答えは、どこにも書かれていない。

朝、障子の白い光で目が覚めた。

座卓の上には、空になった湯呑み。閉じられた文庫本。端が少し湿った手ぬぐい。
畳の上には、どこから入り込んだのか、桜の花びらが一枚だけ落ちていた。

襖は、半分だけ開いたままだった。

佳乃はしばらくそれを見ていた。
昨夜、閉め忘れたのだろう。たぶん、そうだ。そういうことにしておくのが、いちばん自然だった。

鏡台の前に座り、髪を整える。
乾いた髪の中に、まだ少しだけ湯の匂いが残っている気がした。旅館の朝は、昨日の夜をきれいに片づけてしまう。でも、全部は消してくれない。

格子戸の前で、佳乃は一度だけ振り返った。
朝の桜は、夜よりもずっと明るい。そのぶん、何も隠してくれないようで、少し困る。

けれど彼女は、ほんの少しだけ笑った。

何かがあったわけではない。
何もなかったと言うには、少しだけ春が濃すぎた。

襖の向こうでほどけたものを、佳乃は誰にも話さない。
話さないから、きっと長く残る。

収録イメージ

夜桜の古民家宿
夜桜の道。物語は、宿へ向かう後ろ姿から始まる。
水瀬佳乃 湯上がり
湯上がりの濡れ髪。見せないことで、余韻だけが残る。
朝の和室
朝の和室。空の湯呑みと文庫本だけが、夜を知っている。
水瀬佳乃シリーズ
昭和レトロな宿、浴衣、湯煙、障子、襖、朝の余韻。
露骨ではなく、見えそうで見えない大人の時間を描くAI写真集シリーズです。

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